シナリオ01_草刈り機が島を縦断した日 — 総まとめ小説
東シナ海の南、本土からみなみ丸で半日ほど揺られた先に、渡神島(とかみじま)はある。通称TOKAMI。面積三十八平方キロ、人口およそ六千八百人。なんの変哲もない孤島だったこの島は、二〇二六年から「技術実証特別自治区」に指定され、本土ではまだ実験段階の制度や技術を、まるごと社会に流し込む場所になった。自動運転車が石畳の路地を這い、現金の代わりに電子通貨「トカポ」が流通し、住民には基本収入が配られる。働かなくても最低限は暮らせるが、働く理由がなくなったわけでもない。
実験の開始から十五年。便利になったものもある。壊れたまま放置されたものもある。半分動いて半分動かない無人コンビニ、たらい回しが常態化した行政、誰も責任の所在を問わなくなった数々の不具合——島民はそれらと折り合いをつけて暮らしていた。何かがうまくいかないことに、いちいち驚かなくなっていた。
二〇四一年六月のある午前。その「うまくいかなさ」の一つが、また姿を現した。
C区のウゴクヤツ——自律型機械の実証エリアをそう呼ぶ——を担当する田村は、その朝、フェンスに開いた直径八十センチほどの穴を見つけて立ち尽くした。三十八歳、着任からまだ半年。穴の大きさには見覚えがあった。農業用の自動草刈り機が、また脱走したのだ。これで三回目になる。
田村は震える指で保安局に電話をかけた。「申し訳ありませんが、C区の案件は当局の管轄外でして」。丁寧な、しかし取りつく島のない声だった。次に島警察にかけると、今度は「機械の件でしたら保安局さんにお願いできますか」と、これも丁寧に押し返された。田村はしばらく電話口で黙ってから、「……わかりました」とだけ返して、通話を切った。誰も悪くなかった。ただ、誰の仕事でもなかった。その間にも、扁平な機体はB区の住宅地へ向かって、子どもの小走りほどの速度で、しかし着実に北上していた。
ナカ商店街は、B区のなかほどにある。亜熱帯の湿気が石畳から立ち昇り、軒先の風鈴が一つだけ、潮風に鳴っていた。美容院「アトベ」を営む跡部仁が、その朝もシャッターを開けたところで、学習センターへ向かう途中の仲村唯と顔を合わせた。仲村はこの店の客でもある。「なんだか、外が騒がしいですね」と仲村が首を傾げると、跡部も「私もよくわからないんですが」と同じ角度に首を傾げた。
そこへ、島警察の宮本が自転車で通りかかった。二十八歳、地域を自転車で回る顔なじみの警官だ。「アレです。アレ。また草刈り機です! 刈られたくない植物があったら念のため隠しておいてくださいねー」。早口でそう言い残し、北の方へ走り去っていく。跡部は「はいはい」と手を振った。実のところ宮本は、すでに田端副署長から「保安局に言え」と言われ、保安局からは「C区に言え」と言われた後だった。現場にたどり着いても、自転車を止めて眺める以外にできることがない。「俺に言われてもなぁ……」という小声のつぶやきを、聞いた者はいなかった。
仲村に向かって、跡部は記憶をたどりながら言った。「三回目らしいですよ。毎回、最後は神社に行くって聞いてます」。前回は二年前、前々回はその二年前。どちらも草刈り機は最終的に北の渡来神社へたどり着き、伸び放題だった境内の草を刈り尽くした。そしてそのたびに、神社を守る老人——島民が親しみと畏れの混じった呼び方で「オジイ」と呼ぶ人物が、「よくやった」とつぶやいたという。なぜそう言ったのか、わざわざ問いただした者はいない。問う必要を感じた者も、いなかったのかもしれない。
商店街の端、修理屋「なんでも直す」の沖田は、シャッターを半分だけ上げて腕を組んでいた。「まあ来たら来たで」。それ以上でも以下でもないその一言が、今日の商店街の空気をそのまま言い表していた。たばこ屋「ポーシー」の保市屋健一も、サングラスの奥から通りを眺めているだけで、特に動かなかった。
草刈り機が商店街の入口に差しかかると、石畳の上では刃が空振りを繰り返す乾いた音だけが響いた。刈るものがない。機体はわずかに蛇行してから、入口の観葉植物の葉先だけをきれいに揃えて、北口へ抜けていった。「しっかり刈ってったな」と店主の一人がつぶやき、「また神社か」と別の一人が言った。古参の住民が何人かうなずいた。誰も止めなかった。誰も困っていなかった。それが、この島の収まり方だった。
草刈り機がB区の住宅地に入る頃には、その周りに人が増えていた。
学習センターに通う高校生、照屋陽翔は、スマートフォンを横向きに構えて機体の動きを記録していた。彼には、目の前で起きる奇妙なことを記録せずにいられない質がある。本土の大学へ行きたいという気持ちを、まだ親には言えずにいたが、こうして島の出来事を一つひとつ写真や動画に残しておくことが、いつかどこかへ繋がる気がしていた。草刈り機の動きには、規則性があった。直進と迂回を繰り返しながら、全体としては北からずれない。左へ逸れても右へ逸れても、すぐに補正して北へ戻る。ランダムではない。何かに引き寄せられているような動きだ、と陽翔は感じた。
そこへ自転車でやってきた同級生の忍野悟が、「無理すんなよー」と声をかけた。C区の出身で、暇さえあれば何かを試さずにいられない男だ。忍野は面白がって自転車を機体に近づけた。すると草刈り機が、ふいに向きを変え、自転車の金属フレームへ引き寄せられるように接近した。「……あれ、こっちに来てないか」。忍野が言うと、陽翔はすかさずその瞬間を録画した。自転車を左右に動かすと、機体もつられて向きを変える。「金属に反応してる?」「磁気かもしれない」。二人の間で、最初の手がかりが共有された。
息を切らした田村が追いついてきたのは、その少し後だった。「触らないでください」と言いかけて、また口をつぐむ。何か言いかけては飲み込む——その挙動を、忍野はまじまじと見た。この担当者は、何かを知っている。
その様子を、少し離れた場所から見ている少年がいた。同じく学習センターの小此木櫂だ。人と話すのが得意ではなく、古い漫画と日用品の修理にしか興味がない。母から「危ないから近づくな」と電話で言われていたが、前回も前々回も誰も怪我をしていないことは知っていた。どこかへ行きたくなる機械の気持ちが、なんとなく分かる気もした。その感覚は、声には出さず、心の中にそっとしまった。しばらく後ろをついていくうち、照屋・忍野・宮本の三人が機体を囲み、それをするりと南東へ抜けられて全員がてんでばらばらに走り出す滑稽な光景を目にして、ふっと肩の力が抜けた。「草刈り機もお散歩ってするんですね」。気づけば、照屋の隣でそう口にしていた。忍野が「よお」と返した。それで十分だった。自己紹介もないまま、四人は緩やかな取り巻きになっていた。この島では、そういうことがよくある。
学習センターへ向かう途中だった仲村唯も、いつの間にか追跡に加わっていた。授業に遅れるのは承知の上だ。三回とも同じ場所へ向かうという話が、彼女には単なる誤作動とは思えなかった。仲村には、人の隠していることや、語られない事情を覗き見たいという、少し屈折した好奇心がある。学習センターで自分が浮いていることも、こうして島の古い話を集めて回っていることも、誰にも言っていない。宮本の自転車の荷台に「乗せてもらえませんか」と頼み込み、「こけても知りませんよ」と言われながら、するりと乗ってしまう。荷台の上から見る光景は、地を駆けて追いかける者たちよりも、ずっとよく見えた。
三人が同時に機体を囲んだ瞬間、草刈り機は一瞬ぴたりと止まり、小刻みに揺れた後、三人の隙間のうち最も広く開いた南東へ、するりと抜け出した。「速い」と忍野が叫んだ。宮本が「なかなか、小賢しいセンサーだな」と苦笑する。誰も止められなかった。けれど、誰も本気で困ってはいなかった。亜熱帯の陽が、石畳をじりじりと照らしていた。
草刈り機がまだB区をうろついていた頃、話は北の渡来神社にも及んでいた。
北浦の渡来神社。その境内を、神辺トオルが歩いていた。五十歳。本土には戻らない事情を抱え、島の北の外れで世捨て人のような暮らしをしている男だ。人と関わることを好まないが、観察することはやめられない。彼は、今回草刈り機が通ってきた道の跡を、南からたどってきたところだった。住宅地の植え込みが、妙にきれいに刈り揃えられている。縁石の白が朝の光に鮮明だった。進路は一本道ではなく、障害物のたびに迂回しているが、全体としては北を指している。左に曲がっても右に曲がっても、次には補正して北へ戻る。機械は見えないが、この道の先にいる。
神社へ戻ると、鳥居の前にオジイが立っていた。いつもの紺色の作業着姿で、朝の空を見上げている。二人は目だけを交わした。先に口を開いたのはオジイだった。「また、かな。みんな、最後はここしかないんだな」。静かな声だった。草刈り機のことを言っているのか、自分のことなのか、あるいは神辺のことなのか、判然としない。オジイはそれ以上何も言わず、ゆっくりと社殿の方へ下がっていった。どうせ草刈り機が来れば、また縁側に出てくるのだろう、と神辺は思った。
神辺は鳥居の前に立ち止まった。木製の古い柱に、補強用の鉄釘が何本も打ち込まれている。古い木に、金属の補強。境内の草は、前回刈られてから二年が経ち、すっかり伸び放題になっている。機械がここを「目指す」とすれば、この鳥居に何かがある。仮説はまだ形にならなかったが、南から近づいてくるはずの音に耳を澄ませながら、トオルはその場で待つことにした。
同じ頃、商店街の端の修理屋では、八歳の少年・霧島海斗が、店主の沖田に食い下がっていた。何でも知りたがり、一度気になると周りが見えなくなる質の子だ。「なんでこんなに逃げ出すんですか。あと、ゴールが毎回神社なのも、なんでですか」。沖田はしばらく黙ってから、工具を置いて答えた。「磁気じゃないか。あの神社の鳥居、釘が多いだろ。木製だが金属の補強が入ってる。ああいう機械、磁気センサーで基準点を設定するタイプがある。なにかの拍子に誤登録したら、毎回そっちへ向かっちまう。……想像だけどな」。「修理できないんですか」「できる。ただ設定変更は開発元の作業だ。島だけじゃどうにもならん」。それから沖田は、誰にともなくつぶやいた。「もう三回目らしいな。さすがにマニュアルくらいあるだろうに」。海斗が「マニュアル?」と聞き返したときには、沖田はもう店の奥へ引っ込んでいた。
磁気、鳥居、開発元、マニュアル。断片が頭の中で散らばっている。海斗はノートと鉛筆を握ったまま、神社へ向かって全力で走った。石段を飛ばし、転びそうになっては踏みとどまり、また走った。境内に着くと、鳥居の前に見知らぬ男——神辺がいた。海斗は知らない大人に物怖じしない。「こんにちは」と声をかけ、すぐに鳥居の柱に取りついて釘を数え始めた。一本、二本——十本以上ある。新旧が混在し、頭が赤く錆びたものもある。「これだ」と海斗は声に出した。磁石は鉄に引かれる。この鉄量なら、機械にとって強力な目印になる。彼はノートに鳥居の略図を描き、釘の位置を書き込んだ。「鉄釘十二本以上、新旧混在、磁気センサー誤登録の可能性」。トオルは少年の手元を一度見て、「そうかもしれん」とだけ言った。年齢も素性も関係なく、観察を持ってきた人間の言葉は聞くに値する、と思った。南の方角から、かすかに刃の回る音が聞こえ始めていた。
同じ頃、島の別の場所でも、それぞれの朝が進んでいた。
A区の中央医療センターでは、D区に住む坂口昌浩が診察を受けていた。六十八歳。本土の大手スーパーで三十年勤め上げ、妻と死別した後、流れるようにこの島へ来た。受付で「最近よく耳が聞こえなくて」と伝えたが、自分の声が大きすぎたのか、待合室の何人かが振り向いた。接客で生きてきた人間にとって、相手の声が聞き取れない不便は、これまで縁のないものだった。
診察室で、医師の沖原が静かに告げた。「加齢性難聴の所見です。補聴器をご検討の場合、島内では調達できず、本土からの取り寄せになります。ただ島の環境では湿気や塩分でのダメージが早い。メンテナンスを考えると、周囲の方に大きな声で話してもらうのが、現実的な対処になるかと」。坂口は少し間を置いて「なるほど」と返した。周囲に頼む、か。この島で、頼める相手がどれだけいるだろう。
待合室に戻ると、若い看護師——名札に「篠田」とある——が、近くの患者に何か話していた。声は聞き取れなかったが、「草刈り機」「商店街」という単語だけが拾えた。坂口は音声を文字に変換するアプリを思い出し、起動した。篠田が通りかかったところで「すまない、教えてもらえるか」と画面を見せながら尋ねる。「二年前にも、その前にも脱走して、毎回渡来神社に行き着くんです」と篠田は答えた。坂口は何気なく「みんな落ち着いているね。あらかじめC区から説明でもあったのかと思ったよ」と続けた。すると篠田の表情がわずかに動き、少し間を置いてから「そういう連絡は、特になかったと思いますが」と答えた。「思いますが」——断定を避けた言い方。坂口はその言葉の隙間に、引っかかるものを感じた。C区の研究施設と、この医療センターは、何かで繋がっているのではないか。根拠はない。三十年の接客で培った、言葉の余白を読む癖が、そう囁いただけだった。知らないのと、言えないのと、分からないのは、それぞれ別のことだ。
そのさらに東、D区のコンテナ街では、なおとという男が路地を歩いていた。緑に侵食された無機質な街並みに、島で一番早く朝の光が届く場所でもある。神谷が、コンテナの屋根の縁に腰かけて煙草をくゆらせていた。D区の有象無象を束ねる「番」の番頭。誰が決めたわけでもなく、自然とそうなった男だ。この島の非正規な秩序を束ねている。非正規ではあるが、非正義ではない。「ナカ商店街の方で騒ぎが起こっているようだな」。神谷は灰を指で弾いた。「草刈り機が脱走した。三回目だ。見てきてくれ。何かしろとは言わない。どんな連中が動いているか、把握しておきたい」。「それは必要な情報なのか」となおとが尋ねると、神谷は片頬で笑った。「知っていて困る情報はない。そういうものだ」。北へ向かうなおとの耳に、刃が空回りする乾いた音が、少しずつ近づいてきた。表の島と、その下を静かに流れるもう一つの島が、この日もそれぞれのやり方で、同じ一つの出来事を見つめていた。
B区では、追跡劇がさらに核心へ近づいていた。
草刈り機を取り巻く一団は、いつしか役割めいたものを帯び始めていた。照屋が記録し、忍野が試し、小此木が観察し、仲村が宮本の荷台から全体を眺める。そして田村が、汗だくでその後ろを追う。
仲村が荷台の上から、笑顔のまま切り出した。「宮本さん。田村さん、何か知ってそうじゃないですか」。宮本と仲村が田村を振り返り、小此木も「止めるのが正しいですよね?」と問いを重ねた。三方向からの視線を浴びた田村は、額の汗をタオルで拭い、ついに観念したように口を開いた。「……背面の赤いパネルを開けて、電源ボタンを三秒押していただくと、止まります」。
宮本が思わず声を上げた。「なんだ。それ、最初から言ってくださいよ」。田村は「すみません」と頭を下げた。止め方を知らなかったのではない。知っていて止められないことが、恥ずかしかったのだ。宮本が「他に、草刈り機の情報ってあります?」と促すと、田村はためらいながら続けた。「引き継ぎ書類には初回キャリブレーション完了とあったんですが……実施場所の記録がなくて。前任の佐伯はすでに離島していて、確認できないんです」。佐伯——その名前が、B区の昼前の空気の中に、短く浮かんで、消えた。誰の記憶にも、まだ深くは残らなかった。
止め方が分かった、その瞬間だった。忍野は、もう自転車にまたがっていた。「行きます」。力強く、迷いなくペダルを踏み込む。陽動で気を引き、その隙に誰かが後ろから電源を切る——理屈の上では、完璧な計画だった。
ところが。
草刈り機は、忍野の自転車を完全に無視した。ジグザグが消え、小刻みな揺れも消え、機体はまっすぐ北を——遠くにかすむ鳥居を見据えて、走り出したのだ。「あ!」。忍野の口から、間の抜けた声が漏れた。スピードが上がっていく。自転車を踏み込んだ姿勢のまま、忍野は固まった。「今の動き、なんですか!?」と宮本が言った。全員が並んで、遠ざかっていく機体の背中を見送った。石畳に空振りする刃の音が、だんだん小さくなっていく。仲村が「行っちゃいましたね」と言い、宮本が「うん、行っちゃいましたね」と繰り返した。誰かが、ぷっと笑った。田村だけが、笑わなかった。C区の担当者として、それは笑える光景ではなかったのだろう。
草刈り機が走り去る先、渡来神社の鳥居前では、神辺と霧島が南を向いて待ち構えていた。そこへ、美容院の跡部仁がカメラを提げて到着した。午前の予約をすべて終えてから店を閉めてきた几帳面な男だ。冷静で口数は少ないが、こういう「島の何かが少し動く日」を写真に残すことを、理由もうまく言えないまま、何年も続けている。
鳥居を正面から見て、跡部は足を止めた。柱のあちこちに釘が打たれている。頭が赤く錆びた古い釘と、まだ光沢の残る新しい釘が混在し、ところどころ角材が添え木のように当てられ、板材が継ぎ足されている部分もある。専門の職人の仕事ではない。技術ではなく、意志で維持されてきた鳥居だ、と跡部は思った。「これ、ずっとこうなんですか」と神辺に尋ねると、「さあ」とだけ返ってきた。「オジイが直してるって聞きました」と霧島が補足する。跡部は黙ってシャッターを切った。釘の頭のアップ、継ぎ当ての角材、添え木の接合、鳥居全体の引き。何枚も、何枚も。
南から、刃の音が近づいてくる。やがて機体が視界に入った瞬間、その動きが明らかに変わった。ためらいなく、鳥居へ向かって一直線。霧島がノートに書き込んだ。「鳥居確認後、即座に直進モードへ移行」。やっぱりだ。この鳥居を、ずっと最初から目指していた。神辺は地面の草をかき分けて拾っておいた朽ちた鉄釘を握り、機体に近づけてみた。軌跡がわずかに、釘の方へ引き寄せられた気がした。気のせいかもしれない。だが、気のせいではないとも思った。機体は、迷いを振り切るように直進し、ついに鳥居をくぐった。境内に入り、一度停止すると、ランプが緑に変わる。そして、刃が草に触れる、湿った音が始まった。
B区から歩いてきた一行——田村、宮本、照屋、忍野、小此木、仲村——が境内に合流したのは、それからすぐのことだった。止める手段は分かっている。背面の電源ボタン。人数も揃っている。誰かが動けば止められる。誰も動かなければ、このまま刈り終わる。どちらが正しいのかを言える人間は、その場に一人もいなかった。神社は、いつも一人で来ていた小此木の目にも、今日は見たことのない顔をしていた。草刈り機がいて、オジイがいて、神辺がいて、霧島がいて、跡部がいて、後から仲間たちが歩いてくる。こんな賑やかな渡来神社を、彼は知らなかった。
照屋が、縁側のオジイのもとへ向かった。録画は、そっとオフにしてから尋ねた。「初めて来た時に『よくやった』と言ったのは、なぜですか」。オジイはしばらく草刈り機を見てから、答えた。「よかったんだよ、草を刈ってくれて。それだけだ」。それから、付け足すように続けた。「……最初に来た時はな、驚いたよ。ちょうどその頃、C区から若い担当者がよく神社に来ていた。機械の搬入やら何やらで、忙しそうでな。佐伯くん、といったかな。真面目な子だったよ。鳥居が古いって、気にしてた」。
説明は、それだけだった。田村の口から出た「佐伯」と、オジイの口から出た「佐伯」が、境内の空気の中で静かに重なった。初回設定の場所は記録されていない。前任者はもう島にいない。そしてその前任者は、神社によく来て、鳥居を気にかけていた。知らずにそうなったのか、知っていてそうしたのか——その問いの答えは、島を去った男の中にしかない。仲村も、霧島も、もう少しだけ食い下がってオジイに尋ねたが、浮かんできたのは人物の輪郭だけで、肝心の謎には届かなかった。誰も、それ以上は追わなかった。追っても仕方がないことを、この島の人間は知っている。
忍野は、その間も諦めていなかった。「諦めんぞ」とつぶやきながら、刈り続ける機体に何度も近づく。横から行けば横へ避け、後ろから回れば速度を上げる。安全センサーの仕事は、相変わらず完璧だった。自転車のフレームで引き付けようとしても、刈ることに集中した機体は見向きもしない。
何度目かの挑戦の最中、草刈り機がふいに動きを緩めた。忍野は身構えた。来る——そう思った。ところが機体は、忍野ではなく、鳥居の方へゆっくりと戻っていき、そのまま完全に静止した。ジグザグも、揺れも、何もない。ただ、止まっている。
「……あれ、止まってます?」。忍野の声に、誰も即座には答えなかった。あれだけ追いかけて、避けられ続けて、最後はこんなに呆気なく止まる。完璧な計画を立てた直後にこうなるのは、たまにあることだ。忍野は、自分が今までどれだけ必死だったのか、急に分からなくなって、少し笑った。なんとも言えない笑いだった。
田村が小走りで近づいた。「待機モードに入ったんだと思います。これなら……」。背面の赤いパネルを開け、自分の手で電源ボタンを三秒押す。低い駆動音が、すうっと消えていった。境内が、急に静かになった。刈られたばかりの草の匂いと、潮の匂いが混じって漂う。三方から囲んでも逃げられ、陽動を試みても無視され、ここまで散々振り回されてきた末の、あまりに静かな結末だった。
「ありがとうございます」。田村は、その場の全員に向かって、何度も何度も頭を下げた。誰も損をしなかった。それが、誰かの小さなつぶやきになって境内に落ちた。
オジイが縁側からゆっくりと立ち上がり、すっきりと刈られた境内を見渡した。そして、つぶやいた。「よくやった」。今日初めて、その言葉が、その場の誰の耳にも、はっきりと届いた。二年分の伸び放題が消えて、境内は見違えるように見通しがよくなっている。忍野は自転車のハンドルを握ったまま、しばらくその景色を眺めていた。止めようとしたことに意味があったのかは分からない。けれど、止まったことには、意味があった気がした。
神辺が、ふと田村に声をかけた。人と関わりたがらない男にしては、珍しいことだった。「あの。……定期的に、これくらいの頻度で、誰かが草刈りに来てくれると、助かるんだが」。実利の話なら、彼にも言える。年老いたオジイ一人で、これだけの広さの草を刈り続けるのは、簡単ではない。境内が荒れずにいることは、この地区を拠点にしている自分にとっても、ありがたい。田村は少し驚いた顔をしてから、「……検討してみます」と答えた。
田村は、深く一礼してから、C区のフェンスの方へ歩いていった。その背中が、少しずつ小さくなっていく。誤登録を直すには開発元の作業がいる、と沖田は言っていた。島だけではどうにもならない。その手続きがいつ動き出すのかは、田村自身にも、まだ見えていないようだった。
ナカ商店街では、午後一時にシャッターを開けたばかりの「ポーシー」に、坂口が立ち寄っていた。喉が渇いて飲み物を探していたのだ。「大変だったらしいですね」と坂口が話を振ると、店主の保市屋は「ああ、まあ、よくあることですよ」とそっけなく返した。三回目だ、もう驚かない、と。坂口は麦茶を一本買い、千円札で払って店を出た。
坂口が去ってしばらくして、シャッターの隙間から別の客が入ってきた。私服だが、どこかC区の施設の人間らしい雰囲気がある。この島に来て三年、保市屋にはそういう嗅覚が備わっていた。「いつものやつ、ある?」。保市屋は無言で奥へ引っ込み、小さなパッケージをカウンターに置いた。独特の草の香りが、一瞬だけ店内に漂う。男は折り畳んだ千円札を数枚置いて、出ていった。トカポは、使われなかった。取引記録の残る電子通貨は、この種の商いには向かない。記録に残らない取引が、今日も一つ、静かに終わった。誰もが草刈り機の方を見ている日は、誰もこちらを見ていない。保市屋はそのことを、特に感情を交えずに計算していた。
そのまま商店街を歩いた坂口は、入口の無人コンビニにたどり着いた。相変わらず空の目立つ棚を眺めながら、ふと突飛な想像が頭をよぎる。もしかして、今回の騒動と関係があるのか。搬入用の自動運転車がバグを起こして、勝手に在庫を神社へ運んでいるのでは。島中の機械が、最終的にすべて神社へ引き寄せられているのだとしたら——昔観たロボットアニメのような話を思い描き、「まさか、そんな馬鹿なことが」と、自分の発想に呆れて笑った。真相にはまるで届いていなかったが、的外れな思いつきにしては、構造だけは妙に的を射ていた。本人は、それを知る由もない。
夕方、居酒屋「帰り旗」では、宮本がいつもの席に座っていた。「結局、なんだったんですかね、あれ」。カウンターの向こうで、店主の藤堂が答えた。元研究者の経歴を持つ、何でもノートに書き留める女性だ。「鳥居の鉄釘に、誤登録、だそうですよ」。「はぁ、そういうことですか。まぁ、神社の草もきれいになりましたし、もうこれでいいですよね」。「えぇ、そうですね」。藤堂はそれだけ言うと、古いノートを開いて、一行だけ書き加えた。誰に見せるつもりもない、その日のための記録だった。
島の東、D区へ戻ったなおとは、神谷に短く報告した。「特に何も。ただの草刈り機でした」。神谷は短く笑った。「だから言ったろう。知っていて困る情報はない」。
鳥居が、誰によって、なぜ基準点に選ばれたのか。佐伯という男が、本当はどんな思いで神社へ通っていたのか。表の謎も、その下を流れる裏の謎も、この日、完全には解けなかった。けれど草刈り機は止まり、境内はきれいになり、誰も傷つかなかった。それで十分だ、とこの島の誰もが、口に出さずに思っていた。亜熱帯の陽が、ゆっくりと西へ傾いていく。島の午後は、いつも通りの速度で、夕方へと流れていった。
公開日: 2026/06/22