2041年6月、渡神島の午前。亜熱帯特有の重い湿気が石畳から立ち昇り、ナカ商店街のひさしに結びつけられた風鈴がひとつだけ、潮風に鳴っている。
事の始まりは午前九時すぎのことだった。C区ウゴクヤツのフェンスに直径八十センチほどの穴が開いているのを発見したC区担当者の田村が、切羽詰まった顔つきで保安局に電話をかけた。保安局は「C区の案件は管轄外です」とすげなく答える。
田村は、青ざめた顔で島警察に電話をかけた。島警察は「C区の案件は保安局にお願いします」と、こちらは丁寧な口調。
電話口でしばらく沈黙があり、田村は「……わかりました」と返した。その時点ですでに、農業用自動草刈り機はB区住宅地の外縁に差しかかっていた。実験機とはいえ、草刈り性能は抜群だ。もちろん、今回、その性能が問題を起こしてるわけではなかった。
件の草刈り機はさほど速くない。子どもが小走りすれば追い越せる程度の速度で、それでもじりじりと北へ向かっている。幅八十センチの扁平な機体が、住宅地の植え込みの縁をきれいになぞりながら進む様は、どこか几帳面な印象すら与えた。誰かが近づこうとすると安全センサーが反応してわずかに離れ、追いかけると少し速くなる。
追跡を開始した田村はここ一時間ほどそれを繰り返しており、ワイシャツの背に汗がにじんでいた。知らない人間が遠目に見れば、おっさんが一人、踊りながらランニングをしてるように見える。近づきたくはない。
ただ、住民は慣れたものである。感の良い者は「もしかして、また、アレかな」「また、アレですかね」「アレでしょうなぁ」「ああ、アレ」。
B区のなかほどにある、ナカ商店街。
美容院の跡部仁が、店を開こうとシャッターを開けたところへ、ちょうど学習センターへ向かう途中の仲村唯が通りかかり、二人して「何が起きているんだろう」と首をひねっていた。そこへ自転車の宮本が駆けつけ、「アレです。アレ。また草刈り機です! 刈られたくない植物あったら念のため隠しておいてくださいねー」と言いながら騒ぎの方向へ走り去った。
宮本はすでに田端副署長から「保安局に言え」、保安局から「C区に言え」と言われており、草刈り機の脇までたどり着いても、自転車を止めて眺めるよりほかにすることがない状態だった。自転車のスタンドを蹴り下ろしながら宮本は「俺に言われてもなぁ……」と、小声でつぶやいたが、聞いていた者はいない。聞いた者がいたところで、何かが変わるものでもなかった。
草刈り機が商店街の入口に差しかかると、石畳の上では刃が空振りを繰り返す乾いた音だけが響いた。刈るものがない。機体はほんのわずかに蛇行してから、入口の観葉植物の葉先だけをきれいに揃えて、前回と同様にそのまま北口へ向かっていく。ただ、前回と異なるのは、草刈り機に取り巻き――照屋と、神島、シマケイの宮本――がいることである。
見送った店主のひとりが「しっかり刈ってったな」とつぶやき、別の一人が「また神社か」と言った。古参の住民たちがいくつかうなずいた。前回は二年前、二〇三九年の秋。前々回はその二年前。どちらも最終的に草刈り機は渡来神社にたどり着き、境内の草を思うままに刈り込んだ。その時オジイが「よくやった」と言ったことは、島の語り草になっている。なぜそう言ったのかを問いただした者はいない。問いただす必要を感じた者もいなかったのかもしれない。
商店街の端、修理屋「なんでも直す」の沖田だけは、シャッターを半分開けたまま腕を組んでいた。「まあ来たら来たで」。それ以上でも以下でもない、その一言が今日の商店街の空気をよく表していた。
草刈り機は今も北へ向かっている。まだ、誰も止めようとはしていない。もちろん草刈り機は止まらない。
向かう方角には、確かに、渡来神社がある。